クイーン・・・ブライアン・メイと私


管理人: すこんブライアン

1965年生まれ
出身地: 東京


好きなこと:
スポーツ、野球観戦(広島カープ!)、オフロードバイク・・・


好きな音楽・ミュージシャン:
QUEEN、SRV、CLAPTON(クリーム、デレク&ドミノス時代)、POLICE、 Bruce Springsteen、KISS、EVH、Thin Lizzy 

 

 

私がクイーンを聴き始めたのは1975年、小学5年生の時だ。当時の一部のマセた男子の流行といったら、BCL短波ラジオで聞く海外放送と、AMの深夜放送、そして洋楽であった。6年生になるまで、クイーンの武道館コンサートに行き、また近所の電気屋で当時珍しかったバカデカいビデオレコーダーに録られていたNHKのヤング・ミュージック・ショーのKISSの日本公演ビデオを毎日見に行っていた記憶がある。

 

小学校の一部のマセガキの中では、KISS派、QUEEN派、女子を中心としたBCR(懐かしい!)派がいた。

ここから長年に渡る私のクイーン漬けの日々が始まる。

 

レッド・スペシャル ブライアン・メイ 自作・改造・製作

当時のまま使い続けているソニーの短波ラジオ

「スカイセンサー5900」  と

今回改造した「STARFLEETスペシャル」 

 

このラジオから約35年前に突然流れてきた「Bohemian Rhapsody」に、当時小学生だった私は大きな衝撃を受けたことをハッキリと覚えている。

 

当然モノラルだから「(左)ガリレーオ」「(右)ガリレーオ」は同じスピーカーから出てくるのだが・・・

 

当時は毎晩夜更かししてRADIO GA GA していました!

ブライアン・メイ レッドスペシャル レプリカ・コピーモデル Brian May, RedSpecial,自作・改造・製作,STAR'S,スターズ,Burns,バーンズ
まだブートを売っている店が1,2件しかなかった頃購入。 もちろん新宿西口です!

 

中学生時代、学園祭ではエレキ禁止であった。私は歌が下手で自信がなく、クイーンを歌えるヴォーカリストを探した。同じクラスに、ツイスト(世良正則)やデビューしたての長渕剛に入れ込んでソロでやっていた奴がいた。彼(S村君)に近づき、毎日クイーンを聴かせて引き込んだ。学園祭ではアコースティックギター2本だけ。演奏曲は「Tenement Funster」「'39」「Now I'm Here」「It's Late」、そしてアコギ2本で100円玉を使って二重奏をした「Brighton Rock」。何をしているのか理解されずに場内は静まりかえっていたのを思い出す。

  高校に入学して最初の林間学校合宿でも、誰ともクチをきかずに当時発売されたばかりのウォークマンⅡを持ち込んでクイーンを聴いていた。当時大好物であった「都こんぶ」を大量に持ち込み、異臭は放ち食べながらひたすらクイーンを聴いている私に、同室になった洋楽ファンの森川君から「すこんブライアン」という名誉あるニックネームをつけられた(この森川君とはいまだに交友が続いている)。

 

当時私は「NHK ヤング・ミュージック・ショー」で放映した1979年のハマースミス・オデオンのQUEENのライブを金持ちの友人に録画してもらい(当時はβ方式のビデオデッキしかなく、庶民には手が届かなかった)、高校の視聴覚室で毎日弁当を食べながら見ていた。このライブは、演奏、ライティング、フレディの声の調子などどれをとっても最高だった。

 

この頃からクイーン好きが集まってバンド活動のようなものが始まった。

ブライアン・メイ レッドスペシャル レプリカ・コピーモデル Brian May, RedSpecial,自作・改造・製作,STAR'S,スターズ,Burns,バーンズ
1982年 右端が高2の私。 完成したての改造「レッドスペシャルもどき」を手にクイーンを熱演(?)          当時私はブライアンではなく完全にロジャーのファッションに影響を受けていました。

 

そして高校2年の時に、私は初めて市販のギターを改造して「レッドスペシャルもどき」を製作した。

1982年のことである。

 

当時、レッドスペシャルを手にしたければ、実売価8万円前後でグレコのBM-900を買うしかなかった。
金持ちのドラ息子ならまだしも、貧乏高校生にとって手の出る額ではない。

何よりも、ブライアンの音を出すために完全なコピーモデルを買う事を潔しとしないという気持ちがあった。

 
ところがある日、近所の電気専門店(現DEODEO)の楽器コーナーのショーケースの中に、何故かBM-900のピックアップだけバラで売られていた。確か3つセットで20,000円前後だった記憶がある。

 

とにかく私にとって、そのピックアップは運命的な出会いと思えた。今となっては笑い話だが、当時はそのピックアップが、何やらブライアンの魔法の音が出せるようになるきっかけのような気がしたのである。 後先も考えずに、店員に値引き交渉をして取り置きをお願いし、なけなしの小遣いで購入した。

 

さて、ピックアップを手にしたものの、本体をどうすれば良いかわからない。当時はレッドスペシャルに関する資料といったら、斉藤節雄氏著の「ブライアン・メイ奏法」と「クイーン・サウンド」しかなかったと思う。当然ながら現在の情報からすると間違った情報も多いのだが、限られた情報の中で、氏のブライアン・サウンドに対する分析と洞察はかなり優れていたと思う。この2冊はその後私にギターの改造や配線などの楽しさを教えてくれた貴重な本であり、今でも大切に保管している。

 

ブライアン・メイ レッドスペシャル レプリカ・コピーモデル Brian May, RedSpecial,自作・改造・製作,STAR'S,スターズ,Burns,バーンズ
改造のベースとなったARIA-ProⅡの1981年頃のカタログ

 

さて、改造ベースとなるモデルを探すために、毎日各メーカーのカタログをパラパラやっていた。

総改造費用がBM900の実勢価格を超えたらまさに本末転倒だ。

 

すると、あるアリアのモデルに目が留まった。ダブルカッタウェイにチェリーレッド。完全なソリッドでトップも平面で加工しやすそうだ。お店に聞いたら価格も実売価で2万円台後半。このギターのモデル名は覚えていないが、今調べてみたらCS-350というモデルだと思う。即注文して購入した。 

 

そこの、練習スタジオとして行きつけの楽器店のリペアマン氏と相談し、できる限りレッドスペシャルに近づくように計画した。また、全てをリペアマン氏にまかせると改造費用がかさんでしまうので、自分でできる作業は工具をお借りして自分で行った(ザグリ、配線の一部、アーシング処理、パーツの選定・注文をリペアマン氏におまかせした)。また、レッドスペシャルは「内部にかなりの空洞部があるセミ・ホロウ構造」という響きに憧れて、リペアマン氏が制止するのも聞かずにピックガード下を彫りまくった。

ピックアップ配線はブライアンのトーン・バリエーションの全てを3つのON-OFF-ONスイッチだけで出せるようにした(当然、当時はパラレル配線)。ミニスイッチ類の接点の図面とにらめっこしながらリペアマン氏と一緒に考えたのだが、6つのスライドスイッチ操作を3つのミニスイッチだけで行うのはとても便利で、おそらく1982年当時でやっている人はいなかったように思う。(ON-ON-ONスイッチにすればシリーズ配線でもできたわけで)何故ブライアンもこうしなかったのか不思議に思った記憶がある。当時ネット情報などもちろんないが、ギターの配線に関する書物や情報はほとんどなかった。

ブライアン・メイ レッドスペシャル レプリカ・コピーモデル Brian May, RedSpecial,自作・改造・製作,STAR'S,スターズ,Burns,バーンズ
1983年 ブースタースイッチとそのゲイン・コントロールノブを追加。 右は高校の学園祭。 アンプの上にはKorgのディレイ・マシーン。生意気にもステレオアウト(笑)

 

ピックアップはピックガード吊り下げ式にしていたが、無知に内部を彫りまくって空洞部を増やしたことが影響して、ハウリングに悩まされることになる。そこで、後日、ピックアップ下に蝋とシリコンを流し込んで固めてしまった。

 
また、BM-900のオリジナル・ピックアップのパワー不足に悩まされ、エフェクターとの相性も悪かったため、1年後に自作でブースターを製作し、ギター内にそのON-OFFスイッチとゲインのノブを追加している。

結局、これだけのことをしても、自分の改造ギターとブライアンのレッドスペシャルのサウンドとの共通性を見出すことはできなかった。これは最近になってわかったことであるが、そもそもBM-900のピックアップもその配線方法もボディ構造も、レッドスペシャルとは全く異なるものであったので当然と言えば当然である。当時BM-900を購入して「ブライアン・メイと同じ音が出せた!」と言っていた人が何人かいたが、今思えば何だったのだろう??
苦心して改造した自分のギターよりも、レスポールモデルやストラトモデルを使っている人のほうがライブでも遥かにいい音を出していた。今思えば、時間とカネを浪費して、かえってヘンな音を出していたことになる。

このギターを語る時に忘れられないのが、当時無理して購入した
Korgのディレイ・マシーンだ。右上の画像のアンプの上に置いてあるのがそれだ。1980年発売のSD-200で、定価4万円台の価格では画期的な400mm秒までのディレイ・タイム(当時としては超ロング!)が設定でき、「Keep Yourself Alive」のギターソロや「Brighton Rock」もどきの一人二重奏が楽しめた。このディレイ・マシーンは当時では珍しかったエフェクト音の出力端子がついていたので、演奏時には常時ショートディレイをかけて生意気に2個のアンプを使っていた。これも当時では随分珍しがられた記憶があって懐かしい。また、フィードバックを多めにかけて、ディレイタイムのノブを回すと面白い効果音が出せるため、大学時代まで「Ogre Battle」のイントロや、「Another One Bites The Dust」の効果音としてもステージで活用した。

私はまた、この頃にカセットデッキを改造して、多重録音機とテープ・エコーを作成した。

といえば聞こえがいいが、多重録音機は、消去ヘッドを引っこ抜いただけの小学生でも思いつく仕様。録音を重ねても前の音が消えないだけの原理だ。イヤホンで再生音を聞きながら重ねていくのだが、重ねる音のほうがレベルがかなり大きくなってしまうため、大きい音からどんどん小さく重ねていかないと音のバランスが悪くなってしまう。重ねる回数も4回が限界であった。4回重ねてはWラジカセでダビングして、上に2,3回重ねるという作業をして、プロセッションやゴッド・セイブ・ザ・クイーンを録音して1人で楽しんでいた。

テープエコーは、語学学習用のテープスピードが変更できるモノラルカセットテープレコーダーを加工し、録音時でも再生音が出せ、テープスピードの変更ができるように配線をつなぎかえた。カセットテープは中をバラしてテープをエンドレスにつないだ。本体のテープスピードを変えればディレイ・タイムが長くなるのだが、ブライトン・ロックの800mm秒程度にすると音のブレがひどく、ステージで使えるシロモノではなかった。

さて、私の「改造レッドスペシャルもどき」は、その後も私のメインギターであり続けたが、大学進学の際の引越し時に、運送会社が紛失するという悲しい結末を迎えた。

ブライアン・メイ レッドスペシャル レプリカ・コピーモデル Brian May, RedSpecial,自作・改造・製作,STAR'S,スターズ,Burns,バーンズ
高校最後のメンバー。中央が「レッドスペシャルもどき」を持った私。このメンバーではクイーンはやっていない

高校の部活の合宿で。 奥で寝ているのが私。枕元には懐かしい2代目ウォークマンWM-2と単一乾電池のバッテリーボックスが!  いつでも持ち歩いてQUEENばかり聴いていた。

 

【そして運命の日】


その日は突然、あっけなくやってきた。 浪人して自宅で悶々としている時に、前述の森川君が遊びに来て我が家に1枚のLPを置いていった。Bruce Springsteenのライブのブートレッグだった。当時Bruce Springsteenは「Born In the USA」が出る直前で、まだブームとなっていなかった。私はアメリカン・ロックには全く興味が無く、ブルース・スプリングスティーンとリック・スプリングフィールドの違いもわからないほどだった。そのライブ盤は1978年の「Winterland」のものであった。

 

あまりのパワー、テクニックに優れるバンドの厚い音(特にピアノとドラムはクイーンとは異なる完全なるプロフェッショナルな音であった)。延々シャウトしてもかれないヴォーカル。メッセージ性のある歌詞、軽快なサックスの音・・・ クイーンとは対極にあるロックを聴いた衝撃で、私は完全にガツンとやられた。

 

私は約8年間、あまりにもクイーンに傾倒しすぎていた。もちろん、ブリティッシュ・ロックを中心に他の音楽も聴いた。多くは私の狭い音楽観で門前払いにしていた。要するに食わず嫌いであったのだ。
当時クイーンは「The Works」を発表した後であり、第3黄金期を迎えるところで人気は衰えるどころか、さらに新たなファン層を獲得していた。

 

その日を境に、私はフレディーが最期となるらしいと噂された「Innuendo」発売まで、ほとんどクイーンを聴かなくなった。とは言いながら、1985年の武道館と代々木第一体育館のコンサートは2回行った。「Now I'm Here」でセットのやぐらによじ登り、観客を楽しませてくれたフレディーの姿がとても印象的だった。コンサートと言えば、私は結局1976年(武道館)、1979年(山口県立体育館)、1982年(西武球場)、1985年(武道館、代々木第一体育館)、1993年のブライアン・メイ、ニール・マーレイ、コージー・パウエルらの公演(新宿厚生年金会館)に行っている。


クイーンに関する自分のバンド活動は、大学3年の時にたまたまクイーン好きが私を含めて4人集まり、学園祭でコピーバンドを結成して演奏した。屋外ステージであったが、アンプやキーボードなど機器を使い過ぎて、演奏中に何度もブレーカーが落ちるというハプニングがあり、恥ずかしい記憶として残っている。

ブライアン・メイ レッドスペシャル レプリカ・コピーモデル Brian May, RedSpecial,自作・改造・製作,STAR'S,スターズ,Burns,バーンズ
この2枚が最後に買ったクイーンのブート。 この後長期間にわたりクイーンファンを中断・・・

 

その後、CD、MDの出現、私が社会人になってからは携帯電話、パソコン、DVD、MP3プレイヤー・・・とどんどん新しい環境変化の波が押し寄せることになる。

 

そしてそれから多くのレッドスペシャルのコピーが出ては消えていくのを傍観していた。内心では、あの頃に帰って、夢であったギターを手にし、Now I’m Hereを弾いてみたい!と思うのだが、仕事に忙殺されていた。いつの間にか、昔スラスラ弾けたフレーズが全て弾けなくなっていた。大学、社会人の数年間はバンド活動をしていたが、その後ギターそのものが弾けなくなっていた。

 

ある日ネットを見ていると、全くの素人の方が、自作でレッドスペシャルを製作した奮闘記が目に留まった。また、優秀な工房がレッドスペシャルの全貌を解き明かし、限りなく本物に近いギターを製作していることを知った。

 

1982年に何の知識もないまま、レッドスペシャルを夢見て改造モデルを作った私にとって、30年経とうとする今でも若いブライアン・フリークが生まれ、活動しているのを知って感動した。青春とともにリアルタイムでクイーンを聞いてきた私は、浦島太郎状態でフリーズしていた自分の時間を取り戻すべく、今回の改造、そして50Th企画を思いついた。

 

年代を超えて、私のようなブライアン・フリークの数人にでも共感頂ければ本望である。

 

 

                       ⇒市販モデル大改造計画

 

 

 

 

 

ブライアン・メイ レッドスペシャル50周年企画 自作・改造・製作 Brian May RedSpecial